「紅の豚」戦争の英雄はなぜ豚になったのか。
こんにちは、tohnomです。
このブログでは、アニメや漫画の世界を文学のように紐解くことで、作者からのメッセージをより深く理解していこうとしております。
■本日の作品は「紅の豚」
飛ばねえ豚は ただのブタだ。
今回は1992年に公開されたジブリの名作「紅の豚」について、
下記の3つのポイントから作品を紐解いて参ります。
・作品のテーマ 〜「豚」が意味するものとは。〜
・作品のメッセージ 〜戦争の英雄はなぜ豚になったのか。〜
「紅の豚」は世界大恐慌時のイタリア・アドリア海を舞台にした作品である。
第一次世界大戦を生き延びた退役軍人のマルコ(ポルコ)は賞金稼ぎとして飛空艇に乗り続けている。
世界大恐慌の時代の話なので、お金にまつわるシーンが散見される。
・空賊(マンマユート団)が借金を抱えて、飛空艇のペンキ代が足りなくなる
・設計士のフィオが、ガソリン代がイタリアの3倍すると文句を言う
・ポルコが借金持ちになったと空賊に笑われる
・設計士のフィオと大量の請求金が賭けの対象になる
一方この作品が公開されたのは、1992年7月バブル崩壊の時期である。
作品の時代設定を世界大恐慌にしたのは、バブル崩壊を生きる現代人に対するメッセージとも捉えられる。
バブル崩壊の影響を受けていることは、監督の宮崎駿さんが「紅の豚」を「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画」としていることからも伺える。
・作品のテーマ 〜「豚」が意味するものとは。〜
それでは、「紅の豚」のテーマとは、なにか。
これに関しては、マルコとフェラーリンの映画館での会話が興味深い。
軍人として少佐にまで出世したフェラーリンと軍人を辞めて賞金稼ぎの豚になったマルコは実に対象的である。
フェラーリンはマルコに軍隊に戻ってこいと誘うが、
「ファシストになるより豚の方がマシさ」とマルコは応える。
それに対して「冒険飛行家の時代は終わったんだ」
「国とか民族とか、くだらねえスポンサー背負って飛ぶしかないんだよ」とフェラーリン。
しかし「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」引かないマルコに対して、
「飛んだところで豚は豚だぜ」とフェラーリンが返すも
結局、マルコは「豚」でいることを辞めようとはしない。
「豚」と「人間」は対になる言葉である。
「豚」になったポルコ(マルコ)は愛国債権はしない。
そもそも豚に国も法律もない、ファシストとなって戦争(人殺し)もしない。
「豚」は、人間のしがらみから開放されているのである。
この作品のテーマは、こうした「人間のしがらみ」に対する生き方なのである。
・作品のメッセージ 〜戦争の英雄はなぜ豚になったのか。〜
先ほどマルコとフェラーリンのくだりでは、最後に「あばよ戦友」とフェラーリンのセリフで終わる。
それは、お互い戦争を経験しながらも別の道を歩むマルコへの餞別の言葉だった。
マルコは戦争で古くからの仲間を失っている。
その時、死の淵に立ったマルコは「雲の平原」で敵も味方もなく、飛空艇の戦死者が一列となっている姿を見てしまう。
軍人として敵と戦いながらも、死者の世界では敵味方の区別が存在しないという矛盾をマルコは目の当たりにしてしまうのだ。
だから、マルコは人間であることを捨てて、「豚」となり戦争に加担することも、人殺しをすることもやめたのだ。
「豚」は怠惰や欲望の象徴のようだが、マルコ(ポルコ)はアドリア海の飛空艇乗りとしての誇りを持っている。
「飛ばねえ豚は ただの豚だ。」
また「紅の豚」に糸井重里さんがつけたキャッチコピーが「カッコイイとは、こういうことさ。」。
人間のしがらみの中では生きづらく、かと言って豚に落ちぶれることも許されない私達に、
自らの信念と誇りのために生きる「紅の豚」は私達に「カッコいい生き方」を教えてくれている。