キルラキル、人はなぜ制服を着るのか?それとも着せられているのか?
こんにちは、東野です。漫学では、アニメや漫画の世界を文学のように、作品に込められたメッセージをより深く紐解いていきます。 本日の作品は「キルラキル」
「キルカ、キラレルカ」 「天元突破グレンラガン」の今石 洋之(監督)と中嶋かずき(脚本)が手がける「キルラキル」。作品を紐解くポイントは以下の通り
- 女子高生の物語
- 服とは何か
- 「着せる側」vs「着る側」
- 人と服の関係:着るのか、着せられているのか
- 卒業について
女子高生の物語
「キルラキル」は極制服と呼ばれる制服に支配された学校、本能字学園に纏 流子が転校するところから始まる。
作品に登場する主要メンバーは、主人公(纏 流子)、ライバル(鬼龍院 皐月)、ラスボス(鬼龍院 羅暁・針目 縫)に至るまで全て女性である。
同スタッフで作成された「天元突破グレンラガン」が、エンジニアを主人公にした男の世界のアニメだとすると、「キルラキル」は、女子高生を主人公にした女の世界のアニメととらえられる。
服とは何か
流子が転校した本能字学園では、極制服と呼ばれる特別な制服によって、無星、一つ星、二つ星、三つ星と階級が与えられ、上の階級の極制服を着ることにより、強い力を手に入れることができる。
作品の冒頭で、鬼龍院 皐月の学生の制服についての台詞が興味深い。
「この国が学生に着せている制服、これは軍服を元にしている。男子の詰め襟は陸軍の、女子のセーラー服はその名のとおり海軍のものだ。この国は、若人に軍服を着せて教育することを選んだ国家だ」
この作品における服とは、主に制服のことを意味し、そして、服とは、制服のように人に役割を与え、人の役割を規定するものである。
物語が進んでいく中で、生命戦維と言われる宇宙から来た生命体が、服という形で人間に着られることで人類の進化を促したことが判明する。
人類の進化は服を着せられることから始まったのである。
「着せる側」vs「着る側」
物語は、世界を一枚の布で覆ってしまおうとするカバーズとその支配に抵抗しようとする本能字学園の生徒・反制服ゲリラ組織の「ヌーディスト・ビーチ」の戦いへと移行していく。
世界を一枚の布で覆うカバーズ
「世界を一枚の布で覆う」とは何か。それは、服(役割)によって人を支配することである。彼らは服を着せようとする。 花嫁衣装と呼ばれていた「純潔」を母親である鬼龍院 羅暁が、娘である流子に着せて、自分の支配下にしようとするのは一つのメタファーであろう。
※「純潔」を着た流子には、生まれてから結婚までの「幸せな人生」の幻想が生まれている。
結婚までの「幸せな人生」の幻想
服に支配されることのないヌーディスト・ビーチ
その一方、本能字学園の生徒・反制服ゲリラ組織の「ヌーディスト・ビーチ」が目指す世界とは何か。「ヌーディスト・ビーチ」が、服を着ないことで、服の支配を回避している大人の集団であるが、本能字学園の生徒は自ら服を着ながらも、服に支配されることのない、「ワケの分からない」個性と自由を持つ集団である。 彼らは自ら服を着ることを選択した人間なのだ。 皐月の台詞にある、下記のような一言が象徴的だ。
「今分かった。世界は一枚の布ではない。何だかよく分からないものにあふれているから、この世界は美しい。」
コラム:満艦飾 又郎について
マコの弟の又郎は、服による世界から逸脱した存在して描かれている。 小学校をサボってスリやカツアゲを行う。作品の冒頭では「義務教育にかまけているほど暇な身分ではない」との台詞もある。大文化体育祭の際には、制服をボディペインティングすることで、生命戦維の攻撃を受けずに済んだ。小学生である又郎は、まだ服(制服)を知らない存在なのである。
人と服の関係:着るのか、着せられているのか
大抵の人間は、生まれてからしばらくは親が着る服を選択する。つまり、親に服を着せられてることから始まる。自分がなりたい自分の姿をするのではなく、親の願望に合わせた姿をさせられている。 そうして、物心がつき中学生にもなると、今度は学校から指摘された服を着せられるようになる。これが制服だ。私たちは、結局服を着ているようでいて、本当は服を着せられているに過ぎないのである。 皐月の言葉を使えば、服を着た豚たちということになる。 しかも、
「人間は生まれてから20年も服を着ると服への抵抗感がまったくなくなる」
人間は、服(役割)を着せられ続けると、与えられた服によって支配されることに抵抗がなくなるのである。そうして、自分で服を選択することができなくなる。
女子高校生に対しての作品の問いかけ
そうなる前の女子高校生に対して、この作品は問いかける。制服は、効率的で画一的に支配である近代教育の象徴である。だけど、当の女子高生たちは決して画一的ではないはずだ。羅暁との戦いの前にマコは言う。
「帰ってきたらデートしよ!かわいい服着て、かわいいアクセサリーつけて、買い物したり、アイスクリーム食べたり、女の子が好きな服、好きに着て安心しておしゃれができる。そんな世界に流子ちゃんがしてくれる!」
女子高生は学校の支配に屈服する必要はない。制服を着せられる必要はない。もっと自由で個性的でいい。「訳の分からない存在」であるべきなのだと。
今日の女子高生は土日にも制服を着ていく。大学生や社会人になっても、高校時代の制服を着てディズニーランドにいく人がいる。彼女たちにとって、制服は支配を意味しない。 むしろ、自分たちのアイデンティティの一つとして制服を利用する。彼女たちは、制服を「着る」のである。
コラム:人衣一体について
流子の人衣一体とは「自分がありたい姿」と「服が与える姿」が一致していることである。それは、人と服とが互いの存在を高め合う、人と服との最高の関係となる。
卒業について
羅暁との戦いに無事に勝利した流子に対して、鮮血は言う。
「セーラー服とは卒業するものだ。これからは好きな服を着ろ。私よりもかわいい服をな」
当然のことであるが、卒業式を迎えると学生は制服を脱がなければいけない。 もはや与えられた服を着続けることはできない。自ら自分の姿を勝ち取らなければいけないのだ。 卒業生は、それぞれの道をゆく、鉄工所に就職、親の会社の後継者、大学進学、剣道の道、そこには制服のように画一的な姿など存在しない。
これからは「自分のなりたい姿」ができる服をきていくことになるのだろう。支配の象徴であった本能字学園も、卒業式とともに崩壊する。 「キルラキル」は、制服の支配に抵抗し、自らの存在を主張し続けた「訳の分からない」集団が、それぞれの道へと歩みだす物語である。
キャッチコピーは、「キルカ、キラレルカ」。作品は、私たちに問う。本当に服を着ているのかと。