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もののけ姫ネタバレ考察「アシタカは、なぜサンと別々に暮らすことを選んだのか?」

人は自ら生まれ育った文化を簡単に手放すことができない。

だから人は争うし、戦争は終わらないんだ。

もののけ姫」は、そんな文化の衝突を描いた作品である。

作品テーマ:「文化の衝突」

 

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アシタカの文化「人間ともののけの共存」

主人公のアシタカは大和朝廷との戦いにやぶれ、大和の支配を逃れた部族の民である。

アシタカの部族では「人間」と「もののけ」が対等な関係で共存している。その象徴がアシタカとヤックルの関係である。

アシタカとヤックルは同じものを食べる

アシタカはヤックルに話しかけたり、ヤックルが傷ついた際には励ましたりもしているが、特に印象的なシーンは、旅の途中で、アシタカとヤックルが同じ物を食べ合うシーンである。

現代であれば、人間と動物が同じものを食べことは考えにくい。実際には人間と同じご飯をペットに食べさせる人もいるだろうが、それでも意識の上では、私たちは人間が食べるものと動物が食べるものを区別してしまっている。

その証拠に、私たちのほとんどが、動物が一度口にしたものを口にすることができない。この不可逆性は、私たちは、動物(ペットや家畜)が口にするものを「餌」と呼び、人間の食事とは別格のものとして区別していることによる。

つまり、同じものを食べ物を共有するということは、アシタカが人間と動物を対等な関係で捉えていた証でもある。

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アシタカとヤックルの食事。まずヤックルに食べさせ、その後アシタカが食べる。

アシタカとヤックルの関係が垣間見れる。

集落を離れるアシタカの誓い

タタリ神の呪いを受けたアシタカは、自らの集落を出ることになる。この時、髪を切ることになるが、これは自分の部落には二度と戻ってこないという誓いの儀式である。

この時アシタカは自分が育った文化の外で生きることを決意したのだ。

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アシタカの断髪。二度と自分の部落には戻ってこないという誓いの儀式

アシタカは旅の道中で、ある里に辿り着く。そこは田畑があり、市場が存在していた。

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田畑では自然の恩恵ではなく、田畑によって人の力で農作物を収穫している

 アシタカの集落と比べると、かなり文明が進んでいる印象を受けるが、こうした人の手が加わっている部分は、アシタカが今までと異なる文化の地にやってきたことを印象付けている。

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市場では物々交換ではなく、お金でのやり取りが行われている

ジコ坊の文化「天皇文化」

里でアシタカはジコ坊と出会う。ジコ坊は天皇勅令を受けた「唐傘連」の頭領である。要するに、ジコ坊は天皇文化に属する人間なのである。

下記はジコ坊の台詞であるが、彼は神様や不老不死を信仰したりするよりも、見たまんまのものを信じる「もののけ姫」の作品の中では非常に珍しいタイプの人間である。

ジコ坊は損得勘定で行動する、ある種の「商人気質」な一面があったのではないだろうか。

見たまんまのものを信じるジコ坊

「獣とは言え神を殺すのだ」

シシ神退治についてのジコ坊の発言。ジコ坊がシシ神を「神」としてよりも「獣」として認識していることが分かる。

「やんごとなき方々の考えはワシにはわからん」

シシ神の首を狙っている理由についての発言。

天皇からの勅令に関してはあまり理由について深く考えてないことが分かる。

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ジコ坊。天皇の名によってシシ神の首を狙う

 また、作品の最後「バカには勝てん。」という台詞があるが、ここで言うバカとは、天皇の支配を理解しないバカ」「損得勘定ができないバカ」という二つの捉え方ができる。

 

サン(もののけ姫)の文化「純粋な母へ対する慈愛」

アシタカはジコ坊の言う方向へと旅をつづけると、そこでは、戦いで傷ついたタタラの人間がいた。

彼らを助けようとするアシタカの目の前に現れたのは、同じく戦いで傷ついたモロの傷を手当てするサンだった。人間であるサンが、獣であるモロの手当をする姿。

それは、人間と獣という境を超え、純粋な母へ対する慈愛の行為として、アシタカには「美しい」と映るのだ。

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母の傷の手当をするサン

 必死に母親のモロを救おうとするサン。タタリ神の憎しみによって文化を捨てなければいけなかったアシタカにとってサンの姿は、「美しい」と映る。

エボシたちの文化「自然に対峙する文化」

アシタカは傷ついた人間を救うため、山の中を通ろうとする。そんなアシタカの目の前に現れたのは、コダマ(木霊)であった。

すれ違うアシタカの文化とエボシたちの文化

前を走るコダマに対してアシタカは言う。

「道案内をしてくれてるのか。迷いこませる気なのか」

アシタカが、自然に対して身を委ねる文化に属していることがよく分かる台詞である。

これに対して、けが人であるコウロクは、

「こいつらワシらを帰さねぇ気なんですよ」

と、コダマに対して否定的である。

これはコウロクが自然に対峙する文化に属する人間だからであろう。

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コダマを恐れるコウロク

 アシタカとは異なり自然を人間の力でコントロールしようとする文化にいるコウロクはコダマに身を委ねることができないのだ。

自然を破壊してつくった製鉄所

そうして、山を抜けたアシタカたちが辿り着いたのはエボシのタタラ場であった。

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タタラ場

 山を切り崩して築いた製鉄所は、自然に対峙する象徴的な存在として描かれている。山を切り崩し、鉄を作り、自然に抗うエボシたち、そのエボシの鉄砲の玉こそが、タタリ神を招いた原因であったことをアシタカは知る。

エボシの文化、それは当然単に自然を破壊するだけの文化ではない。エボシは自然と戦ってでも守ってきたものがあった。

エボシが守ってきたものは、売られた女と重病患者

売られた女重病患者

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タタラ場の女性。タタラを踏む事で生計をたてている

もともと社会的弱者であった彼女たちの明るくて強気な姿こそ、もののけからエボシが守ろうとしたものの一つなのである。また、重病患者には病気がうつることを恐れて人が近寄らなかったが、エボシはそんな彼らにも仕事と酒を与え、人間扱いをした。

エボシは弱い立場の人間を守るコミュニティーを形成しようとしていたのだ。そんなエボシは、アシタカの「曇り無き眼」にはどのように映ったのか。

やがてアシタカはタタラ場で、エボシとサンの戦いを目の当たりにする。それは、アシタカが初めて見る「人間」と「もののけ」の争いだった。

アシタカが選んだのはどちらも救う道

エボシとジコ坊の「人間」はシシ神の首を狙い、それを守ろうとするサンが属する「もののけ」と対峙することになる。

どちらの文化にも触れて、しかし、そのどちらの文化にも属することができないアシタカは、懸命に「共に生きる」方法を模索するも、結局その思いもかなわず、その場を去ろうとする。

結局アシタカが出した答えは、「ここ(タタラ場)を出て行く」だった。結局、アシタカはタタラ場の人間になることはできなかったのだ。

そんな折、アシタカはタタラ場が侍たちに襲われる事を知る。

どっちの味方にもならない(なれない)アシタカに対してエボシとジコ坊との印象的な台詞がある。

エボシ:「シシ神殺しをやめて侍殺しをやれと言うのか」

ジコ坊:「あいつ…どっちの味方なのだ?」

「文化が違う=争う」ではない

結局エボシもジコ坊も「人間」と「もののけ」、「タタラ場」と「侍」と文化を対立させる二元論で考えている。

しかし、そんな二人にアシタカは言う。

「森とタタラ場双方生きる道はないのか!?」

アシタカにとって「文化が違う=争う」にはならないのだ。そうして共生の道を模索するアシタカが最後にシシ神の首を返す際にサンに対して言った台詞。

「人の手で返したい」

「人間」と「もののけ」との争いをどちらかの勝利で終わらせるのではなく、双方がお互いを認め合う結末をアシタカは目指したのである。

もののけ姫」のメッセージ

「共に生きよう」

結局、文化が違えば、簡単には融合することはできない。かといって対峙させてしまうと争いが起きる。

もともと人間であったサンですら、もはや人間の世界では生きることはできないし、それは彼女が背負ってきた歴史がそうさせてしまうのであろう。

アシタカもまた、もののけに属する事はできない。一度は自分の文化を捨てた彼も、結局は人間としてタタラ場で暮らすことを選んだのだ。

そうして、アシタカは最後にサンに言う。

「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」

文化の違いを融合も対峙もなく、共生の道を開くことができたのだ。

現代に置き換えて考えてみると、作品が公開されたのは1997年。その6年前には湾岸戦争が開始しており、自衛隊ペルシャ湾に派遣した。

1999年には周辺事態法が成立。2001年にアメリカで同時多発テロが発生しアフガニスタン紛争が勃発。2003年のイラク戦争の影響で、日本はイラク復興特別措置法を成立させている。

敗戦して、戦争をしないと決めた日本だが、世界でやむことのない戦争に無関係ではいられない。文化は衝突する。

じゃあ、そこに日本は、あるいは日本人はどうやって介入したらいい。

アメリカ側につけばいい?イラク側につけばいい?

だけど、私たち日本人はやっぱり日本人としてしか振る舞うことができない。文化が衝突し、戦争しているときに、どちらかの文化に組するなんてことはできない。

ただ、お互いが違うということを認識し認め、共に生きようとするしかない。戦争がなくならない現代で、日本人がどういう立場に立つべきかというメッセージが聞こえる。

 

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