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漫学:アニメや漫画を哲学のように紐解くサイト

アニメや漫画の時代背景などを紐解いて、もっと深く楽しめるサイトです。ビジョン:日本を代表する文化である漫画・アニメの新しい見方を世界中に広げていくこと。ミッション:学びとなる知識や教養の発信することで、漫画・アニメに新たな価値を付与する。

「コクリコ坂から」ネタバレ考察:宮崎駿が現代に残したかったモノ

コクリコ坂から」は、1963年、東京オリンピックの前年を舞台に高校生の男女の恋を描いた作品。50年以上前の高度経済成長期の日本の様子を伺うことができる。

当時と比べるとかなり豊かな暮らしを手にしているはずの私たちだが、本当に幸せになっているのだろうか?

 

作品テーマ:便利さと引き換えに現代が失ったモノ

不便だと思うことが不便

「豊かさとは何か?」なんてことが言われて久しいが、作品の中には、時代を象徴するシーンが多数描かれている。

台所ひとつとっても、釜戸で炊くご飯、床下から取り出すタマネギなど

そこには、現代からすると「不便」と思われて、排除されてきたものばかりである。

 

「でも、」と考え直してみる。

 

それは、本当に「不便」なものだったのであろうか?

この時代の人にとってはそれが当たり前であり、彼らにとっては、「不便」でもなんでもないことなのかもしれない。

 

逆にいろんなものに対して、煩わしさを感じてしまう現代の人間こと、不幸なのかもと。

※携帯の電波がつながらないことに苛立つなんてことは、現代ではざらにあることだが、そんなことを感じてしまう現代は本当に幸せなのであろうか。

 

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることとおなじじゃないのか!人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!」 

 

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討論会で発言をする俊

 

探究心も、また現代人が失ったものの一つ 

太陽の黒点の観測を10年もしながら、全くなにも解明できていない学生。部室をもたずに、ディオゲネスのごとく、哲学を研究する学生。作品の中で登場するカルチェラタンは、そんな「探究心」の固まりである。

 

携帯でなんでも調べられる時代には、好きなことを研究するという余裕すら与えられていないのかもしれない。

 

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黒点の観測をする学生

 

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海たちに哲学の魅力を語る学生 

 

「少女よ君は旗をあげる なぜ」  

朝鮮戦争で亡くなった父親にむけらて毎日信号旗を揚げる海(メル)。 

核家族化が進んだ今、この亡き父への信号旗のように、私たちは死者に対してメッセージを送ろうとすることは減ってきているのではないか?

 

また、海(メル)と俊の告白のシーンに関しても、作者の意図を感じられる。

携帯での告白が当たり前になりつつある現代と違い。直接、相手に対して自分の気持ちを伝えるというのは、大切なことなのかもしれない。海の告白を受けて、俊が手を握るシーンも直接伝えるからことのコミュニケーションであろう。

 

「私が毎日 毎日 旗をあげてお父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに風間さんを贈ってくれたんだと思うことにしたの」「私、風間さんが好き」 

 

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俊に想いを直接伝える海 

 

作品の最後、海(メル)は、結局、信号旗を揚げることになるのだが、

それは、物語の最初とは、別の意味をもち、俊への信号旗(メッセージ)となっている。

俊が信号旗に対して、汽笛を返して物語は終わる。

 

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信号旗を掲げる海

 

信号旗は、現代人のコミュニケーションに対するアンチテーゼだ。

 

現代はメールやLINEが発達して、より簡単にコミュニケーションがとれる社会になってきているが、コミュニケーションは、単に物事を伝達することが目的ではなく、海(メル)のように、亡くなった父親にむけて毎日信号旗をあげるという、コミュニケーション自体が意味を持つこともあるのではないだろうか。

 

また、汽笛を鳴らすだけの方が、想像力が働き、通常の言葉によるコミュニケーションよりも、反って相手に自分の気持ちを伝えられるのかもしれない。

 

また討論集会のように、自分の考えを主張するというコミュニケーションも

少なくなっているコミュニケーションなのかもしれない。

「堂々と自己の真情を述べよ!」とは、まさに現代にむけられたメッセージそのままのようにも思える。

 

宮﨑駿が現代に残したかったモノ  

コクリコ坂から」は、技術が進歩し便利になった「現代が失ったモノ」の世界を移している。現代からすれば、不便に思えるような社会で生きる人々の生活だが、そこには人間味があり、好きなことに真っ直ぐに向き合える環境があった。

 

徳丸理事長の質問に対して海(メル)は応える。

 

「君はどうして清涼荘を残したいの?」

「大好きだからです、みんなで一生懸命お掃除もしました。」

 

好きだから。それはきっとカルチェラタンにいる学生全員と同じ気持ちであろう。

受験戦争や学歴社会だけはなく、好きな事を学ぼうとし、それを守ろうと必死になれる人間がいる。

 

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作品は朝鮮戦争を経験し・オリンピックを控え日本の景気が回復してくころの話。

2020年に東京オリンピックを控え、新しい時代を迎える私はまた過去を振り返ることなく、

 

宮崎駿さんは、きっとそういう世の中の幸せのあり方について、

現代の人間にメッセージを送りたかったのではないだろうか?

 

・おまけ 

コクリコ坂から」に関しては、わかりにくい点についての解説

 

■主人公の海はなぜ、「メル」と呼ばれているのか。

 ⇒海をフランス語に訳すと、ラ・メール(la merとなる)になることから、メルと呼ばれている。 

 

■海(メル)の揚げている信号旗の意味

 ⇒「U・W」(安全な航行を祈る)を意味する。

ちなみに風間俊が乗るタグボートの信号旗の意味は、海(メル)への返信で「ありがとう」を意味する。

 

哲学研究会と徳丸理事長の会話

徳丸理事長「君は新しい部室が欲しくないかね?」

哲学研究会「失礼ながら閣下は、樽に住んだ哲人をご存じでしょうか?」

徳丸理事長ディオゲネスか・・・ハハハハハ」

 ⇒徳丸理事長の質問に対して、哲学研究会は外見にまったく無頓着で、樽に住んだ哲学者ディオゲネスを逸話で応えたのである。

 【参考】ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipedia

 

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朝鮮戦争で亡くなった父親、(LST)とは?

なぜ朝鮮戦争で日本人が?と思う方もいるかもしれないが、詳細の解説については、下記を参照いただきたい。



ピカドンとは?

立花の子供(風間俊)を引き取ったときの澤村雄一郎のセリフ「親戚はみんなピカドンだ」立花が亡くなった時その親戚は既に原爆でなくなっていたのである。

「DEATH NOTE」、現代人はなぜ人を殺すのか?

なぜ、夜神月は優秀な学生でありながら、大量殺人をするようになったのか?

漫画「DEATH NOTE」の第一話のタイトルである「退屈」から物語を紐解いてみる。

 

夜神月=近代、リューク=前近代

天才高校生の夜神月を全国で学年トップの成績でありながらも退屈し、死神のリュークは死神界での遊びに退屈していた。

そんな二人が自分たちの世界に「退屈」することで、物語は始まる。

 

近代教育の頂点に君臨する夜神月は近代側の人間の象徴、

一方で神々の世界にいるリュークは前近代の象徴だ。

 

「退屈」は近代の合理性も前近代の宗教性を凌駕し、悲劇の世界を生み出す。

 

DEATH NOTE」は愉快犯の物語

正義のためと大義名分を掲げながらたくさんの人を殺し始める夜神月の姿は、自身のストレス発散のために自分とまったく関係のない人間を殺す愉快犯の姿とどこかかぶらないだろうか?

 

夜神月は自らを新世界の神と呼ながら、

次々と犯罪者をDEATH NOTEで殺してゆき

やがて世界的な大量殺人につながっていく。

 

夜神月は言う

 

「僕は新世界の神になる」

 

今、こんな殺人が現代社会にも起きていないだろうか。

 

「面白くなかったので、人を殺しました」

 

退屈した人間が殺人を生み出すことを示唆しているのである。 

 

もし退屈が殺人の動機になりえるならば、

私たちの一人ひとりの根底には殺人への動機が眠っていることになる。

 

私たちは面白半分で人を殺そうとする本能があるのか?

 

物語は、私たちに人間の本質を突きつけているように思える。

【ネタバレ】「寄生獣」あなたの右手に寄生獣がくるまでに知っておきたいこと

 人間1種の繁栄よりも生物全体を考える!!そうしてこそ万物の霊長だ!!

人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!いや・・・・・・寄生獣か!

 

寄生獣」は、人間の脳に寄生することに失敗した寄生獣が、人間の右手に寄生することから物語が始まる。

 

物語は徐々に人類VS寄生獣へと進んでいくのに対して、人間の泉新一と寄生獣のミギーが共生を通じて、同化が進んでいく

 

■「寄生獣

寄生獣」とはなにか?

近代は、「人間」と「動物」が区別された時代である。

人間は特別な存在として、他の生命とは違い文明を持つ。

 文明は進歩し、人類の生活はどんどん豊かで便利なものになっていく。

 

それは、人類にとってものすごく喜ばしいことだけど、地球としての観点では必ずしも喜べることばかりではない。

環境破壊が進み、他の生物が殺され、生態系が乱れる。

 

人類は特別な存在なのだ。

 

寄生獣は、そんな思いあがりや勘違いをぶち壊してくれる。

 

「人間」という不可侵の領域の内側と外側を繋いぐことで、

寄生獣は、「人間」と「それ以外の生物」の媒体の役割をし、境界線の脆弱性を指摘しているのだ。

 

人類は「寄生獣」と共生できるのか?

人間は、独立した生物である。というもの、一つの誤った考えといえないだろうか。

 

例えば、人体には無数の菌がいて、彼らと共生することでバランスをとっている。

 

殺菌性の高い石鹸での手洗いやウォシュレットの使い過ぎは、本来人体必要な菌まで洗い流してしまうとも言われている。

 

それでも、私たちは清潔や殺菌に夢中になる。

 

手を殺菌する。衣類を殺菌する。空気を殺菌する。

TVでもCMなどでやたらと殺菌を強調した表現がある。

その根底にあるのは、人体の独立性を神話のように信じてやまない人間の外部の生物に対する異常なまでの敵意である。

 

人体には、既に寄生獣がいる。というか常に寄生獣はいる。

しかし、私たちは、普段彼らの存在を無視して、というか排除しようとして生活している。

本来、人体には、彼らとの共生が必須であるにも関わらず、

 

曖昧になる境界線が伝えるもの

 

ヒロインの村野 里美は、泉に対して言う

「君本当に泉くん……だよね?」

 

自分のことを人間だと思っている泉だが、心身ともにミギーの影響を受けて、徐々に純粋な人間でなくなり、人間と寄生獣の境界線を越えていく。

 

身体だけでなく思考も寄生獣の残忍さが身についていく泉は、

事故で瀕死の犬を憐れむ一方で、犬を死体をゴミ箱に捨てようとするなど、「人間らしさ」を失っていく。

 

最後の後藤との決戦の際に一度はミギ-と分離するものの、最終的にはミギ-と合流を果たし、やがて完全にミギーは右手として完全な同化を果たすことになる。

 

寄生獣」からは聞こえてくるのは、そんな「人間」や「人類」が特別な存在であり、そして独立しているという思いあがりに対する警告なのである。

トムとジェリー「誰もが思わず笑ってしまう4つの要素」

1940年に公開されたトムとジェリー

言葉を話すことがない猫とネズミのアニメが、なぜあんなにも面白いのか。

言葉を使わなくても、誰にでも伝わるストーリーと笑いを提供してくれる。

 

作品テーマ:老若男女・万国共通の笑いとは?

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立場が逆転する

猫とネズミの場合、猫=強者でネズミ=弱者と言うのが一般的な概念(記号)であろう。

ただ、トムとジェリーの場合はかならずしもそうとは言えない。基本的にはトム(猫)はジェリー(ネズミ)を追いかけるが、時にジェリーがトムへ反撃をする。

 

弱い者を応援したり、同情したくなるのは人の心理だろうが、トムとジェリーの場合は弱者と強者が簡単に入れ替わるため、思わずトムの方に同情している。なんてこともしばしば起こりえる。

 

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ジェリーを追うトム

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トムの歯をトンカチで粉々にするジェリー

 

思わず突っ込みたくなるシーン

猫であるトムは、ネズミのジェリーを食べよう追いかける。

本来なら命がけの争いのはずなのだが、トムとジェリーの場合には思わずつっこみを入れたくなるシーンがある。

 

例えば、パンに挟まれたジェリーが、自ら自分の身体にバターを塗り始めたり、あるいは拳銃を向けられたトムが、なぜか落とした拳銃を渡してあげるなど、真剣勝負の世界にもかからわず、ユーモアがある。

 

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自らの身体にバターを塗り始めるジェリー

 

 

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拳銃を向けられたトム

 

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思わず転んで拳銃を落とすと…

 

 

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トムが拾ってあげる。

表現の豊かさ

トムとジェリーでは、物理の法則をはずれた表現がしばしば起こる。

トムの身体は割れ物ののようになったり、粘土のようになったり、風船のようにもなる。

誰もが猫がそんな風になるわけがないと知りながらも、大胆で創造性に満ちた表現は誰でも楽しむことができる。

 

 

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ジェリーがレンガをなげると…

 

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トムに命中し、身体が割れ物のように弾け、

 

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フレームだけになってしまう。

 

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チューブを通り抜けたトムの身体はチューブと同じ形に…

 

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スコップが命中したトムの顔がスコップと同じ形に

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ジェリーから空気を送り込まれて顔が風船のように膨らむトム

 

結局、仲良し

いつも喧嘩ばかりのトムとジェリーだが、最終的にはお互いが殺しあうことはない。

※このアニメでは死んでも生き返ることがあるのだが、

 

喧嘩しても仲がいい二匹もストーリーはどこかで私たちを安心させてくれる。だからこそ子どもから大人まで安心して楽しむことができるのだろう。

 

 

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直前まで喧嘩をしていても最後は風邪をひいたトムのために温かいスープを食べさせるジェリー

 

 

天才になれなかった人こそ見る価値があるアニメ「とある科学の超電磁砲」とは?

成績(点数)の序列化される学生生活。学生たちは自分たちの意思とは関係なく、教育システムに組み込まれて、優劣のラベルをつけられることになる。

その中で「劣」となった生徒たちがどう生きるべきなのかということをテーマとしている。

 

作品テーマ:才能がない人はどう生きるべきなのか。

 

■本日の作品は「とある科学の超電磁砲

「学園都市は私たちが私たちでいられる最高の居場所なの。私一人じゃできないことも、みんなと一緒ならやり遂げられる。それが私の、私だけの!」

 

とある科学の超電磁砲」は、超能力が使える学生が集まる学園都市を舞台として、学園都市第3位の超能力者(レベル5)御坂 美琴を主人公とした、学園ものストーリーである。

 

学園都市とは?

作品の舞台である学園都市では、学生を対象にした超能力開発実験が行われており、システムスキャンと呼ばれる身体検査が行われている。

 

学生たちは、何も気づかずに超能力を向上させているが、中では子供たちを人体実験が行われている。

 

「この街じゃてめぇなんぞただのデータ、そうだ減らず口を叩くデータだ」

 

これは、テレスティーナ=木原=ライフライン  の台詞であるが、学生同士を競わせて、序列化し、大人にとって都合のよい人間を輩出しようとする仕組みは、実は現在の教育制度と似ている側面がある。

 

なぜなら、現在の日本の教育制度は、もともとは富国強兵のため、つまり国家戦略としてとりいれられたものであり、決して子供の成長を第一目標として開始されたものではない。

 

その一方で、被験者の子供を守ろうとする研究者でかつ教育者でもある木山 春生の台詞には、こんな言葉がある。

 

「教師が生徒を諦めるなんてできない。」

 

学校という存在がどうあるべきなのか 。

大人は子供の教育に対してどう考えを持つべきなのか。

ということを、この作品は問いかけているのである。

 

佐天 涙子について

この作品は御坂のような優等生のために作られた作品ではない。

むしろ、超能力者が集まる天才集団の中で、(私たちと同じように)全く超能力を使うこともできずに、親からの期待や周囲への劣等感に悩む無能力者(レベル0)の佐天 涙子のような人間に向けられた作品である。

 

作品の中では、佐天のような学園都市に適応できない人間が多数登場する。

幻想御手(レベルアッパー) と呼ばれる能力覚醒装置に手を出してしまう初春・佐天の同級生たち。スキルアウトと呼ばれる無料力者の不良集団。能力開発に行き詰まり非行に走り、銀行強盗を犯す丘原。不良たちからイジメに遭っていた介旅 。

 

また、この作品の特徴は、こうした無能力者が、簡単に能力が向上しない点である。

従来のアニメであれば、登場人物が成長することで困難を乗り越えていくのが一般的であるが、佐天の場合は、作品の最期まで、無能力者(レベル0)のままである。

 

人は急激に成長することはない。

 

それでも、刺繍や着物の着付け、料理などで、佐天が活躍するシーンが描かれている。

また、最終話では、無能力者であるが故に仲間を救うことができる。

 

「学園都市での成績が人生の全てでないこと」「たとえ自分自身が変われなくても、ありのままの自分を活かす道があること」をこの作品は物語っているのである。

 

作品のメッセージについて

学生はどう生きるべきなのか?特に無能力者と呼ばれる教育システムに適応できない学生はどのように学校生活をおくるべきなのか?

 

当然、御坂 美琴のように最初はレベル1の能力者であったが、努力でレベル5となり、230万人の学園都市で第3位の存在になれるものもいる。

 

しかし、高いハードルを見た時に、それを超ようと思えずに、臆してしまう人もいるのが事実である。

 

「学園都市は私たちが私たちでいられる最高の居場所なの。私一人じゃできないことも、みんなと一緒ならやり遂げられる。それが私の、私だけの!」

 

子供は、国家や大人のためのものではない。

テストの点数が全てではない。

 

人に与えられた価値観に従って生きるのではなく、自分たちの学校生活を自分たちで楽しむ。

 

それこそが、パーソナルリアリティ(自分だけの現実)の正体なのである。

引きこもりの人生はなぜ楽しくないのか?「四畳半神話大系」

今回は、森見登美彦さんが原作「四畳半神話大系」について、解説をしていきたいと思います。

 

■本日の作品は「四畳半神話大系

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人生は選択肢が重要ではない。

四畳半神話大系」は、京都大学の3回生が1回生の時に選んだ選択肢(主にサークル)によって、

その後どのような大学生活を送ることになるのかという仮想世界がパラレルワールドとして繰り返される。

 

テニスサークルで失恋、

映画サークルで先輩に反抗、

自転車同好会で体育会系の経験、

先輩に弟子入りして闇鍋などの試練、

ソフトボールサークルで新興宗教のような体験

英会話サークルで貞操の危機、

ヒーローショー同好会で駆け落ち、

読書サークルで文通、

大学の秘密機関でビジネスに成功、

おおよその大学生が体験しそうな経験を体験しつくしていくも、

そのいずれも満足にいかず次の可能性へと話は転々をしていくが、

結局、どの選択をしても理想のキャンパスライフにはたどりつくことがない。

 

大学8回生の樋口 清太郎の言葉で言えば

「薔薇色のキャンパスライフなど存在しないのだ。なぜなら世の中は薔薇色ではない。実に雑多な色をしているからね。」


一見すると人生というものは、選択肢こそが大切のように思えるのだが、

実際には、どの選択肢であっても一定の満足感と不満が生じるものなのである。

 

人生で大切なものとは?

主人公は、最期にどのサークル(同好会)も選択することなく、自称「四畳半主義」の引きこもりになる。

そうして初めて、引きこもり以外の選択が、いかに素晴らしいキャンパスライフであったかを知る。

 

主人公は、引きこもりになった際に、四畳半の世界に閉じ込められて、なんども一人で大きなカステラを食べる羽目にあう。

※本編でも話があるが、大きなカステラを一人で食べるということは、孤独の極地でる。

 

そうして、四畳半の世界で、主人公は初めて気がつく。

どのサークルを選んでも巡り合い悪友となる小津の存在が、かけがえのない親友であることに。

 

やがて、主人公は四畳半の世界を抜け出し、

素っ裸になりつつも、小津のもとに駆け出していくのである。

 

それは、一回生の時から、一緒に飯を食べ、悪巧みをし、時には争う、

親友の大切さを 自覚した瞬間でもある。

 

人生を楽しませてくれるのは、まさに小津のような親友の存在であろう。

 

占い師は言う、

「好機はいつでもあなたの目の前にぶら下がっている」

 

あなたも孤独の世界に閉じ込められてしまう前に、

積極的に自ら好機を掴みにいってみてはいかがだろうか?

ゲド戦記ネタバレ考察「父宮﨑駿とどう向き合うべきかを描く」

父親を殺す主人公アレンを描くことで宮崎吾朗は何を伝えたかったのか。

あるいは『テルーの唄』を通じて、彼が言いたかったこととは。

森緑地設計事務所からジブリへの異例の転身した宮崎吾朗アニメ映画監督としての処女作

 

作品テーマ:運命といかに向き合うべきか?

 

■『ゲド戦記

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主人公アレン=宮崎吾朗

作品は主人公アレンが父親である王を刺し殺し王宮から飛び出すところからから始まる。

原作にはなかったこの設定は、宮崎吾朗監督の父親である宮﨑駿との親子関係のメタファだ。スタジオジブリを設立した偉大な父親の存在から逃げるように信州大学へ進学し、アニメとは無縁の設計事務所に就職した宮崎吾朗自身をアレンとして描いている。

 

ゲド戦記は偉大なアニメ監督(宮﨑駿)から逃げた宮崎吾朗の物語なのだ。

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王である父親を刺し殺すアレン

 

その後のアレンの台詞は宮崎吾朗の気持ちを代弁している。

 

ぼくは父を殺したんだ

父を刺してここまで来てしまった

わからないんだ

どうしてあんなことをしたのか

父は立派な人だよ

ダメなのは僕の方さ

いつも不安で自信がないんだ

 

王宮を飛び出して初めて目にする「現実」

王宮を出たアレンは偶然であったハイタカと共に旅をすることになる。しかし辿り着いたホート・タウンで目にした物は奴隷の売買、まがい物を売りつけるまじない師、麻薬のバイヤーと麻薬によって廃人になった人など王宮の生活では目にすることのない社会の現実だった。

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奴隷の売買

 

「 物は物さ信じられる。魔法やまじないのように形のないものとは違うんだよ」

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まがい物を売りつける元まじない師

 

「この世の憂さを忘れられますよ。苦しさも不安もすべて忘れて幸せになれますよ。」

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 麻薬ハジアを勧めるバイヤー

 

「働く」を知るアレン

 ハイタカと共に、テナーの家に居候させていただくことになったアレン。汗をかき、手にまめつくり農作業をするアレン。辛い仕事ではあるが王子であることしか求められなかったアレンにとって、「働く」ことは生きる意味を考えさせるものだった。

 

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 汗をかいて畑を耕すアレン

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 人生初の仕事でアレンの手にはまめができる

 

偉大なる父宮﨑駿の二面性を描く

大賢人ハイタカもまた宮﨑駿のメタファだ。一度は父親と同じ道から避けた宮崎吾朗が、外から見た宮﨑駿の偉大さを実感したのだろう。テナーがハイタカに救われたエピソードは、宮﨑駿のアニメの影響の大きさを暗示している。

 

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 ハイタカの偉大さを知るアレン

 

ただ、それだけで終わらないのが、この作品のメッセージだ。

ハイタカの対局であるクモもまた宮﨑駿のもう一つの側面だ。

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大賢人ハイタカ

 

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ハブナーのクモ、ハイタカの対局の存在として描かれている

 

クモは、老いを隠し、生へと執着する。

 

俺は死など受け入れない

俺はおまえたちのような価値のない存在ではないのだ

あらゆる知識を学びつくし、力を手に入れた至高の存在よ

 

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死を恐れ永遠の命を求めるクモは「老い」の象徴

父の存在を受け入れ、アニメ監督として生きることを決める

クモ、おまえは僕と同じだ。

光から目をそむけ闇だけを見ている。

他の人が他者であることを忘れ、

自分が生かされていることを忘れているんだ。

死を拒んで生を手放そうとしているんだ。

 

 父親の存在から逃げてきたアレンは、人間の二面性を認められるようになる。

 

僕は償いのために国に帰るよ。

自分を受け入れるためにも。

 

一度は王子として生きる道から逃げたアレンが、自分自身を受け入れる姿は、

一度は父親と同じ道を避け、環境コンサルティングの道を選んだが、アニメ監督として生きることを選択した宮崎吾朗自身とダブらせているのだろう。 

 

それは、決して平坦な道ではない。

 

偉大な父と常に比較対象に晒されることは、むしろ茨の道だ。

 

しかし、物事に二面性があることを知ったからこそ、彼は自分の道を受け入れることができたのだ。

 

今もアニメ監督として活躍する宮崎吾朗は、処女作「ゲド戦記」で自身の決意をアニメとして形に残したのだ。

 

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自らの運命を受け入れたアレン

父 宮﨑駿への気持ちを綴るテルーの唄

生まれ育った環境を離れたアレンが聞いたテルーの唄は、宮崎吾朗が作詞をしている。歌に出てくる鷹は映画監督としていつも見てきた宮﨑駿を暗示し、アニメ監督として生きることを決めた宮崎吾朗の心情を表わしている。

夕闇迫る雲の上

いつも一羽で飛んでいる

鷹はきっと悲しかろ

音も途絶えた風の中

空を掴んだその翼

休めることはできなくて

心を何にたとえよう

鷹のようなこの心

心を何にたとえよう

空を舞うよな悲しさを

人影絶えた野の道を

私とともに歩んでる

あなたもきっと寂しかろう

虫の囁く草原を

ともに道行く人だけど

絶えて物言うこともなく

心を何にたとえよう

一人道行くこの心

心を何にたとえよう

一人ぼっちの寂しさを

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草原で一人歌うテルー