ゲド戦記ネタバレ考察「父宮﨑駿とどう向き合うべきかを描く」
父親を殺す主人公アレンを描くことで宮崎吾朗は何を伝えたかったのか。
あるいは『テルーの唄』を通じて、彼が言いたかったこととは。
森緑地設計事務所からジブリへの異例の転身した宮崎吾朗のアニメ映画監督としての処女作。
作品テーマ:運命といかに向き合うべきか?
■『ゲド戦記』
主人公アレン=宮崎吾朗
作品は主人公アレンが父親である王を刺し殺し王宮から飛び出すところからから始まる。
原作にはなかったこの設定は、宮崎吾朗監督の父親である宮﨑駿との親子関係のメタファだ。スタジオジブリを設立した偉大な父親の存在から逃げるように信州大学へ進学し、アニメとは無縁の設計事務所に就職した宮崎吾朗自身をアレンとして描いている。
ゲド戦記は偉大なアニメ監督(宮﨑駿)から逃げた宮崎吾朗の物語なのだ。
王である父親を刺し殺すアレン
その後のアレンの台詞は宮崎吾朗の気持ちを代弁している。
ぼくは父を殺したんだ
父を刺してここまで来てしまった
わからないんだ
どうしてあんなことをしたのか
父は立派な人だよ
ダメなのは僕の方さ
いつも不安で自信がないんだ
王宮を飛び出して初めて目にする「現実」
王宮を出たアレンは偶然であったハイタカと共に旅をすることになる。しかし辿り着いたホート・タウンで目にした物は奴隷の売買、まがい物を売りつけるまじない師、麻薬のバイヤーと麻薬によって廃人になった人など王宮の生活では目にすることのない社会の現実だった。
奴隷の売買
「 物は物さ信じられる。魔法やまじないのように形のないものとは違うんだよ」
まがい物を売りつける元まじない師
「この世の憂さを忘れられますよ。苦しさも不安もすべて忘れて幸せになれますよ。」
麻薬ハジアを勧めるバイヤー
「働く」を知るアレン
ハイタカと共に、テナーの家に居候させていただくことになったアレン。汗をかき、手にまめつくり農作業をするアレン。辛い仕事ではあるが王子であることしか求められなかったアレンにとって、「働く」ことは生きる意味を考えさせるものだった。
汗をかいて畑を耕すアレン
人生初の仕事でアレンの手にはまめができる
偉大なる父宮﨑駿の二面性を描く
大賢人ハイタカもまた宮﨑駿のメタファだ。一度は父親と同じ道から避けた宮崎吾朗が、外から見た宮﨑駿の偉大さを実感したのだろう。テナーがハイタカに救われたエピソードは、宮﨑駿のアニメの影響の大きさを暗示している。
ハイタカの偉大さを知るアレン
ただ、それだけで終わらないのが、この作品のメッセージだ。
ハイタカの対局であるクモもまた宮﨑駿のもう一つの側面だ。
大賢人ハイタカ
ハブナーのクモ、ハイタカの対局の存在として描かれている
クモは、老いを隠し、生へと執着する。
俺は死など受け入れない
俺はおまえたちのような価値のない存在ではないのだ
あらゆる知識を学びつくし、力を手に入れた至高の存在よ
死を恐れ永遠の命を求めるクモは「老い」の象徴
父の存在を受け入れ、アニメ監督として生きることを決める
クモ、おまえは僕と同じだ。
光から目をそむけ闇だけを見ている。
他の人が他者であることを忘れ、
自分が生かされていることを忘れているんだ。
死を拒んで生を手放そうとしているんだ。
父親の存在から逃げてきたアレンは、人間の二面性を認められるようになる。
僕は償いのために国に帰るよ。
自分を受け入れるためにも。
一度は王子として生きる道から逃げたアレンが、自分自身を受け入れる姿は、
一度は父親と同じ道を避け、環境コンサルティングの道を選んだが、アニメ監督として生きることを選択した宮崎吾朗自身とダブらせているのだろう。
それは、決して平坦な道ではない。
偉大な父と常に比較対象に晒されることは、むしろ茨の道だ。
しかし、物事に二面性があることを知ったからこそ、彼は自分の道を受け入れることができたのだ。
今もアニメ監督として活躍する宮崎吾朗は、処女作「ゲド戦記」で自身の決意をアニメとして形に残したのだ。
自らの運命を受け入れたアレン
父 宮﨑駿への気持ちを綴るテルーの唄
生まれ育った環境を離れたアレンが聞いたテルーの唄は、宮崎吾朗が作詞をしている。歌に出てくる鷹は映画監督としていつも見てきた宮﨑駿を暗示し、アニメ監督として生きることを決めた宮崎吾朗の心情を表わしている。
夕闇迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろ
音も途絶えた風の中
空を掴んだその翼
休めることはできなくて
心を何にたとえよう
鷹のようなこの心
心を何にたとえよう
空を舞うよな悲しさを
人影絶えた野の道を
私とともに歩んでる
あなたもきっと寂しかろう
虫の囁く草原を
ともに道行く人だけど
絶えて物言うこともなく
心を何にたとえよう
一人道行くこの心
心を何にたとえよう
一人ぼっちの寂しさを
草原で一人歌うテルー