ゲド戦記ネタバレ考察「父宮﨑駿とどう向き合うべきかを描く」
父親を殺す主人公アレンを描くことで宮崎吾朗は何を伝えたかったのか。
あるいは『テルーの唄』を通じて、彼が言いたかったこととは。
森緑地設計事務所からジブリへの異例の転身した宮崎吾朗のアニメ映画監督としての処女作。
作品テーマ:運命といかに向き合うべきか?
■『ゲド戦記』
主人公アレン=宮崎吾朗
作品は主人公アレンが父親である王を刺し殺し王宮から飛び出すところからから始まる。
原作にはなかったこの設定は、宮崎吾朗監督の父親である宮﨑駿との親子関係のメタファだ。スタジオジブリを設立した偉大な父親の存在から逃げるように信州大学へ進学し、アニメとは無縁の設計事務所に就職した宮崎吾朗自身をアレンとして描いている。
ゲド戦記は偉大なアニメ監督(宮﨑駿)から逃げた宮崎吾朗の物語なのだ。
王である父親を刺し殺すアレン
その後のアレンの台詞は宮崎吾朗の気持ちを代弁している。
ぼくは父を殺したんだ
父を刺してここまで来てしまった
わからないんだ
どうしてあんなことをしたのか
父は立派な人だよ
ダメなのは僕の方さ
いつも不安で自信がないんだ
王宮を飛び出して初めて目にする「現実」
王宮を出たアレンは偶然であったハイタカと共に旅をすることになる。しかし辿り着いたホート・タウンで目にした物は奴隷の売買、まがい物を売りつけるまじない師、麻薬のバイヤーと麻薬によって廃人になった人など王宮の生活では目にすることのない社会の現実だった。
奴隷の売買
「 物は物さ信じられる。魔法やまじないのように形のないものとは違うんだよ」
まがい物を売りつける元まじない師
「この世の憂さを忘れられますよ。苦しさも不安もすべて忘れて幸せになれますよ。」
麻薬ハジアを勧めるバイヤー
「働く」を知るアレン
ハイタカと共に、テナーの家に居候させていただくことになったアレン。汗をかき、手にまめつくり農作業をするアレン。辛い仕事ではあるが王子であることしか求められなかったアレンにとって、「働く」ことは生きる意味を考えさせるものだった。
汗をかいて畑を耕すアレン
人生初の仕事でアレンの手にはまめができる
偉大なる父宮﨑駿の二面性を描く
大賢人ハイタカもまた宮﨑駿のメタファだ。一度は父親と同じ道から避けた宮崎吾朗が、外から見た宮﨑駿の偉大さを実感したのだろう。テナーがハイタカに救われたエピソードは、宮﨑駿のアニメの影響の大きさを暗示している。
ハイタカの偉大さを知るアレン
ただ、それだけで終わらないのが、この作品のメッセージだ。
ハイタカの対局であるクモもまた宮﨑駿のもう一つの側面だ。
大賢人ハイタカ
ハブナーのクモ、ハイタカの対局の存在として描かれている
クモは、老いを隠し、生へと執着する。
俺は死など受け入れない
俺はおまえたちのような価値のない存在ではないのだ
あらゆる知識を学びつくし、力を手に入れた至高の存在よ
死を恐れ永遠の命を求めるクモは「老い」の象徴
父の存在を受け入れ、アニメ監督として生きることを決める
クモ、おまえは僕と同じだ。
光から目をそむけ闇だけを見ている。
他の人が他者であることを忘れ、
自分が生かされていることを忘れているんだ。
死を拒んで生を手放そうとしているんだ。
父親の存在から逃げてきたアレンは、人間の二面性を認められるようになる。
僕は償いのために国に帰るよ。
自分を受け入れるためにも。
一度は王子として生きる道から逃げたアレンが、自分自身を受け入れる姿は、
一度は父親と同じ道を避け、環境コンサルティングの道を選んだが、アニメ監督として生きることを選択した宮崎吾朗自身とダブらせているのだろう。
それは、決して平坦な道ではない。
偉大な父と常に比較対象に晒されることは、むしろ茨の道だ。
しかし、物事に二面性があることを知ったからこそ、彼は自分の道を受け入れることができたのだ。
今もアニメ監督として活躍する宮崎吾朗は、処女作「ゲド戦記」で自身の決意をアニメとして形に残したのだ。
自らの運命を受け入れたアレン
父 宮﨑駿への気持ちを綴るテルーの唄
生まれ育った環境を離れたアレンが聞いたテルーの唄は、宮崎吾朗が作詞をしている。歌に出てくる鷹は映画監督としていつも見てきた宮﨑駿を暗示し、アニメ監督として生きることを決めた宮崎吾朗の心情を表わしている。
夕闇迫る雲の上
いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろ
音も途絶えた風の中
空を掴んだその翼
休めることはできなくて
心を何にたとえよう
鷹のようなこの心
心を何にたとえよう
空を舞うよな悲しさを
人影絶えた野の道を
私とともに歩んでる
あなたもきっと寂しかろう
虫の囁く草原を
ともに道行く人だけど
絶えて物言うこともなく
心を何にたとえよう
一人道行くこの心
心を何にたとえよう
一人ぼっちの寂しさを
草原で一人歌うテルー
【ネタバレ】ホームレスのアニメ映画を観たことはありますか?「東京ゴッドファーザーズ」
こんばんは、tohnomです。
このブログでは、アニメや漫画の世界を文学のように紐解くことで、作者からのメッセージをより深く理解していこうとしております。
■本日の作品は「東京ゴッドファーザーズ」
今回は、以前こちらのブログでレビューをさせていただいた「パプリカ」の今敏さんが監督している「東京ゴッドファーザーズ」について、解説をしていきたいと思います。
テーマ:「自分の過去と向き合う」
「東京ゴッドファーザーズ」には3人のホームレスが登場する。
ギャンブル狂のギン、オカマのハナ、家出少女のミユキ。
■ハナ(左)、ミユキ(中)、ギン(右)
そんな3人がゴミ捨て場で拾った赤ん坊の両親を探しに旅にでることで物語が進んでいく。
■ゴミ捨て場の赤ん坊
3人には、それぞれ逃げ出してきた過去があり、それがホームレスになった理由となっている。
ギン:ギャンブルで破産し、家族に迷惑をかけた過去
ハナ:ドラァグクイーン時代にお客様に暴力をふってお店に迷惑をかけた過去
ミユキ:口論の末、父親を刃物で刺してしまった過去
物語は、赤ん坊の両親を探しながらも、
不思議と3人がそれらの過去と向き合うように進んでいく。
ハナは、迷惑をかけたお店のママに会いにいき、ギンは見捨ててきた娘との再開を果たす。
ただ、ミユキだけは、物語の中で何度か「家族の愛」を見ながらも自分の過去と向き合うことができないでいる。
・ホームレスが落とした育児雑誌
・誘拐犯の奥さんの授乳
・新聞でミユキの父親の投稿
・ギンと清子の再会
また、ミユキに対してハナがこんなセリフを言うシーンがある。
「正直にさ、何もかも見せあってそれでも愛せるのが血の繋がりってヤツじゃない?」
「東京ゴッドファーザーズ」は、ミユキが父親と向き合うための心の成長を描いた作品である。
ラストのシーンで、ミユキは赤ん坊の誘拐犯の幸子に言う
「その子を心配して待っているホントの親がいるんだよ!!」
「子供がいなくなった時の気持ち、あんたなら分かるでしょ!?」
■説得をするミユキ
それは、ビルの屋上から通行人に唾を吐き捨てふてくされていた家出少女が
自分を探してくれているであろう父親の気持ちと向き合えた瞬間だった。
作品は、そんなミユキが父親と再会をした瞬間に物語が終わる。
最後にミユキがどうなるのかを、視聴者である私たちに想像させようというのである。
そして、視聴者が想像するであろうミユキと父親の再会の光景こそ、この作品が一番伝えたかったことなのである。
この作品のメッセージ。
それは、現代社会において、人間関係で逃げ出したくなることがあるかもしれない。
だけど、本当に大切なのはそこから逃げ出すことではなく、相手(過去)としっかりと向き合うことということ。
人間関係で社会で生きることが嫌になっている人がいたら、
ホームレスになってしまう前に、是非とも一度見ていただきたい作品である。
【ネタバレ】ゴジラ、円谷英二が伝えたかったメッセージ
こんにちは、tohnomです。
世間では「シン・ゴジラ」が話題になっているようですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
そもそもゴジラとは何者なのか皆様はご存知でしょうか?
オリジナルのゴジラはどんな話だったのか、そしてそこに込められたメッセージとはどのようなものだったのか?を解説していきたいと思います。
■本日の作品は「ゴジラ」
1954年に公開された映画「ゴジラ」を今回は3つのメッセージで紐解いてみます。
・そもそもゴジラとは何か?
・なぜ、ゴジラは火(白熱光)を吹くのか?
・ゴジラは結局どうなったのか?
・映画「ゴジラ」はなぜ誕生したのか?
「核の落とし子」とされるゴジラの誕生は、「核」の歴史背景と深い関わりがある。
1945年に広島と長崎に原爆が落とされた後、世界は核開発に躍起になる。
1949年にソビエト連邦、1952年にイギリスが、それぞれ原子爆弾を開発。
1953年にはソビエト連邦が初となる水爆を開発すると、1954年にはアメリカも水爆実験を開始、マグロ漁船の第五福竜丸は水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びることになり、その半年後には乗員だった日本人が亡くなることになる。
ゴジラが公開されたのはこの2ヶ月後である。
海底に生息している古代生物のゴジラは、水爆実験によって生活の地を追い出され、地上に姿を現すことになった。
日本が核爆弾の投下によって広島(9万~16万6千人)、長崎(約7万4千人)が被害を受けたにもかかわらず、世界各国が核へ突き進んでおり、そして日本に核実験の被害が出ている。
ゴジラは「核」に対する怒りの象徴である。
■1945年を契機として加速する核実験
参照:Wikipedia
・なぜ、ゴジラは火(白熱光)を吹くのか?
東京に上陸したゴジラは、次々と街を破壊し始める。
自衛隊の攻撃をもろともせず、ビルを叩き潰し、ゴジラは東京を徹底的に破壊する。
■火(白熱光)を吹くゴジラ
終戦後ボロボロになった日本の経済は、1950年からはじまった朝鮮戦争の影響で、日本は米軍の補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを請け負うことで、景気が回復する。(朝鮮特需)
徐々に元の生活を取り戻した人々にとって、戦争の記憶は忘れたくてしようがなかっただろう。
でも、
ゴジラはそんな人々につきつける
「戦争の記憶を忘れてはならない」と
■燃え上がる東京
■焼け野原となった東京
ゴジラが公開された1954年からは日本は神武景気と呼ばれる爆発的な好景気に突入し、2年後の1956年には経済白書に「もはや戦後ではない」とまで記入され、戦後復興の完了が宣言される。
豊かさとともに薄れていく、戦争の記憶を監督の円谷英二は「ゴジラ」として残したのである。
・ゴジラは結局どうなったのか?
街を破壊をし続けるゴジラに為す術もない状況であったが、天才科学者・芹沢大助が開発した「オキシジェンデストロイヤー」という化学兵器によって終焉を迎える。
その場にいる生物を死滅させ、液状化させてしまうオキシジェンデストロイヤーは、砲丸玉ぐらいの量でも東京湾を死の海に変えられる程の威力を持つ。
水爆にも耐えたゴジラを殺すために、人類は水爆よりも強力な化学兵器を使用することになった。
■オキシジェンデストロイヤーによって骨となるゴジラ
水爆実験によって生息地を追い出されたゴジラを、水爆以上の兵器で殺す。
強力な兵器を求め続ける人類の歴史と、人間の都合で生息地を奪われた古代生物の命を人間が奪うという人間の身勝手さをゴジラの死は伝えているのだ。
となりのトトロネタバレ解説「糸井重里がキャッチコピーに込めた想い」
日本が近代化が進む中、田舎に引っ越す家族
今の私たちの便利で快適な生活とは程遠い生活
だけど、そこには日本が育んできた素晴らしい文化があった
作品テーマ:近代化で日本人 が失うもの
■本日の作品は「となりのトトロ」
人と自然が共生していた頃の物語
作品は、田舎に引っ越したサツキとメイから見た日本の自然が描かれている。
それは、彼女たちにとって奇妙で不気味な世界だった。
明るいテーマ曲やかわいい登場人物からは意外に思うかもしれないが、トトロには、「自然への畏怖の気持ち」が表現されている。
神木に挨拶する草壁一家
「むかーしむかしは木と人は仲良しだったんだよ」
自分たちの都合で自然破壊を繰り返し、自然をコントロールしようとする。作品はそんな現代人にかつて日本にあった「自然との向き合い方」を伝えようとする。
トトロがくれたどんぐりが芽吹いたことを喜ぶ。サツキとメイ。
トウモロコシを収穫するメイ。
自然との共生、それは数十年前の日本には確かに存在していたのである。
近代化によって失われた想像力
サツキとメイが引っ越した先は西洋式と和式が併存する家だ。また、サツキたちの父親であるタツオの仕事場が西洋側であることは偶然でないだろう。
タツオは大人になり、西洋(近代)側の人間になってしまっていたのだ。
(だからトトロを見ることができない。)
西洋式と和式が併存する家
タツオの仕事場は西洋側。西欧側(近代側 )になったタツオにはトトロが見えない
サツキとメイにはトトロやネコバス、まっくろくろすけが見える一方でタツオにはもう見ることはできない。
妖怪やお化け。
自然に接することで、私たちは想像力を刺激されていたのだ。
「となりのトトロ」が公開された時の糸井重里のキャッチコピー 「このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん。」
近代化が進み日本の文化が薄れていく中で、日本人が感じることができなくなったものを作品は伝えようとしている。
メイが描いたトトロ。自然が子どもの想像力を育む。
不安で不便だからこそ生まれる絆の大切さ
サツキが住む家には、ススワタリが住んでいてぞわぞわとしている。風が強い夜には家が飛んでしまうのではないかと不安になる。
また、井戸から水を汲み上げなければいけなかったり、お風呂をわかせるために火を起こさなけれいけなかったり不便な思うことはたくさんあるだろう。
でもそういった不安さや不便さがあるからこそ、強い絆が生まれるのかもしれない。
私たちは便利で快適な生活を求めるあまりにどこか絆が希薄になってしまってはいないだろうか。
家族でお風呂。みんなで笑うことで不安な気持ちをはねのけようとする。
また、作品の最後ではメイが迷子になってしまう。そんな時は近所の人が全員でメイの捜索に協力する。
もし今メイのような迷子がでたら、近所の皆さんは一緒になって探してくれるだろうか?
警察にしか頼ることができない。現代社会はどこか人間の絆の希薄になりがちだ。
メイの捜索にあたる近所の人たち。
迷子になっていたメイを抱きしめるおばあちゃん。彼女の涙からは絆の大切さが感じられる。
私たち日本人が忘れているものとは?
作品の背景にあるのは都市開発。つぎつぎと自然が破壊され、文化やコミュニティが失われていく。
コンクリートの上しか歩いたことがない子供は、スーパーで売っている野菜しか知らない。近所付き合いが希薄になり隣に誰が住んでいるかもわからない。
便利で快適な生活を得る一方で、私たちは多くのものを失ってしまったのだろう。
もはや喪失したことさえ無自覚になってしまっているのかもしれない。
糸井重里はもう一つのキャッチコピーを作っている。
「忘れものを、届けにきました」
日本が本来もっていた大切な文化をトトロは今に伝えようとしている。
【ネタバレ】【風立ちぬ】宮崎駿の最後のメッセージ
こんにちは、tohnomです。
このブログでは、アニメや漫画の世界を文学のように紐解くことで、作者からのメッセージをより深く理解していこうとしております。
■本日の作品は「風立ちぬ」
この作品は、ジブリの巨匠、宮崎駿が自らが最後の作品として監督された作品であり、作品の随所でクリエーター宮崎駿からの強烈なメッセージが感じられる。
さて、今回ご紹介したい作品のポイントは、3点。
・カプローニ=宮崎駿
・原作「風立ちぬ」にはなかった戦争の設定
・美しい夢の行き着く先は地獄だった
・カプローニ=宮崎駿
物語は、飛行機に憧れる堀越が零戦を作るまでの話である。堀越の夢の中には、飛行機の設計の先輩であるイタリア人のカプローニが登場する。この作品のメッセージは、夢を追いかける視聴者を「堀越」として、宮崎駿のメッセージをカプローニが話すという構造になっている。
つまり、カプローニの台詞は宮崎駿からのメッセージなのだ。
「私は、この飛行を最後に引退する」
「創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい」
創造的人生の短さについて語るカプローニの台詞からは、宮﨑駿がアニメ界を全力でかけて抜けてきたことが想像させ、次世代のクリエイターたちへの激励のメッセージとなっている。
・原作「風立ちぬ」にはなかった戦争の設定
風立ちぬは、ジブリの作品の中でもっとも戦争を直接的に表現した作品となっている。作中では戦争や死を感じさせるように、墜落した飛行機や卒塔婆などが意図的に挿入されており、戦争や震災の悲惨さを命のはかなさを直接的に訴えかける。
しかし「風立ちぬ」の原作は結核の女性を題材にした小説であり、そこには戦争の描写は存在しない。零戦設計者の堀越二郎を主人公にしたのは宮﨑駿のアレンジであり、そこからは監督の意図がうかがえる。
宮崎駿は自身の作品を通じて戦争の記憶を後世に伝えようとしてきた。風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、もののけ姫、ハウルの動く城、そして風立ちぬ。宮崎駿がジブリで監督した10作品中、5作品は戦争や兵器が作品に登場する。
宮﨑駿にとって、アニメは人々に戦争を伝える「手段」だったのかもしれない。
また、軽井沢で堀越はカストルプと出会う。不適な笑みを浮かべながらカストルプは堀越に軽井沢について話し始める。
(軽井沢は)忘れるにいいところです。
チャイナと戦争してる。忘れる
満州国つくった。忘れる
国際連盟抜けた。忘れる
世界を敵にする。忘れる
日本破裂する
戦後70年たった今日、日本人の記憶から戦争の記憶が薄れつつある。カストルプのこの台詞もまた現代の私たちへのメッセージ。たしかに今日の日本は「軽井沢」になっているのかもしれない。過去の日本の戦争や世界の各地で戦争が起きていることを私たちは忘れてはいないだろうか。作品は問いかける。
・美しい夢の行き着く先は地獄だった
美しい飛行機を作りたいという夢を少年の頃から追い続ける堀越。その堀越にカプローニは告げる。
「君はピラミッドのある世界とピラミッドのない世界とどちらが好きかね。」
「空を飛びたいという人類の夢は呪われた夢でもある。飛行機は殺戮と破壊の道具になる宿命を背負っているのだ。それでも私はピラミッドのある世界を選んだ。君はどちらを選ぶかね。」
堀越の美しい夢はゼロ戦となり、そしてパイロットを1人も無事に帰還させることなく終わる。最後のシーンでのカプローニと堀越との会話は美しい飛行機をつくりたいという堀越の夢の結末を物語る。
「ここは私たちが最初にお会いした草原ですね」
「我々の夢の王国だ」
「地獄かと思いました」
地獄図と化したゼロ戦
・作品のメッセージ
作品のコピーである「生きねば」は、当然だが生命活動営むという辞書的な意味ではないいいということではない。「生きる」だけなら苦労しなくなった現代人にむけて宮崎駿はメッセージを送る。
風が立つ、生きようと試みなければならない。
堀越二郎は夢を追い続け、零戦を設計した。世間的には「成功者」だ。
でも、宮崎駿は違うと言いたい。
なぜか?
それは宮崎駿も一緒だから。
自分も映画を作ることが夢だった。
一躍有名で、海外でさえ、その名を知らない人がいないほどになった。世間からみたら、夢を叶えた宮崎は「成功者」だ。
ただ、堀越と一緒。
色んなものを犠牲にして夢を叶えた先は地獄よりも地獄的だった。つまり、宮崎は伝えたいことを伝えるために映画を描きつづけた。
戦争のこと。
自然のこと。
映画はヒットする。でも平和はこない。環境破壊も悪化の一途で取り返しのつかないところまできている。
自分の無力感を、最後の自分の映画に表現したのではないか。どこか虚無感すら感じさせる夢の終着点。
夢という言葉は勘違いされがちだが、夢は叶えることさえも楽しいことばかりではない。堀越のように地獄のように終わることもあるだろう。それでも私たちは夢に対して力を尽くさなければいけない。
これがアニメを通じて私たちにメッセージを送りつづけた宮﨑駿からの最後のメッセージだ。
【ネタバレ】「借りぐらしのアリエッティ」の「借りぐらし」の意味とは?
本日ご紹介するのは「借りぐらしのアリエッティ」
|作品のテーマ:「抗えない運命」
約70億人いる人類が自分だけを残して滅びそうになったら、あるいは、もし心臓病を患っていて、手術の成功確率がきわめて低いとしたら?
もしそんな状況になれば、私たちは今以上に自分の人生を深く見つめ直さなければいけなくなるだろう。
私たちが普段目にする物語やアニメは主人公が自分や仲間の力で自らの運命を切り開く。そんなストーリーが多いのではないだろうか。
しかし、「借りぐらしのアリエッティ」に登場するのは自分たちでは抗うことのできない重い運命を背負った二人である。
そんな運命を目の前にしても生きる意味や希望を見いだしていくためにどうすべきなのか、作品は私たち問いかける。
作品のポイントは下記の3点
1)借りぐらしとは何か?
2)小人とは、絶滅していく生物たちのメタファ
3)翔はなぜアリエッティに角砂糖を渡すのか?
1)借りぐらしとは何か?
作品のタイトルにもある「借りぐらし」について、アリエッティの言葉を引用すると「人間の家から気づかれないように少しずつ必要なものを借りてくる」ということになる。
「借り」だけでくらす
↓
なにも所有しない
↓
所有の概念がない
私たちは何かを所有することは当たり前だと思っているかもしれない。
しかし貨幣経済がない文明では所有の概念がない村が存在する。そこでは個人という考え方はなく、村単位で収穫したものを分け合うコミュニティが存在し、借りぐらしもこうした所有がない文明に通じるものがある。
借りぐらしという生き方はどこか近代以前の「天からの恵み」という考え方を彷彿させる。生きていること、住まい、食べ物、出会いその全てが誰かから与えられたものという考えである。
お金でなんでも買って手に入れようとする時代。
「借りぐらし」とは私たちが文明の発展の課程で失ってしまった考え方とは言えないだろうか。
2)小人とは、絶滅していく生物たちのメタファ。
「君たちは滅びゆく種族なんだよ。これまでにも多くの生き物が絶滅してきた。僕も本でしか見たことないけど美しい種族が地球の環境の変化に対応できなくて滅んでいった残酷だけど君たちもそういう運命なんだ。」
どこか他人事のように冷たい翔の台詞にアリエッティは声を荒げる。
「運命ですって?あなたが余計なことをしたから私たちはここを出ていくことになったのよ。」
「私たちの種族が、どこかで工夫して暮らしているのをあなたたちが知らないだけよ!私たちはそう簡単に滅びたりしないわ!」
また、家政婦のハルは、小人の住処を探したり、ネズミ駆除の業者を呼んだり、小人をビンに捕獲したりとあらゆる手法を使って小人を捕まえようとする。
このハルの行動は、どこか人類が他の生物を絶滅に追いやってきた人類の姿を彷彿させないだろうか。
小人とは、絶滅していく生物たちのメタファだ。
私たちはハルが小人にしてきたように、一部の種族を絶滅まで追いやってきたのである。
ハルがホーリーを捕まえようとするシーン。小人視点で描かれていてホーリーの恐怖が伝わりやすい。
「見ーつけた!」
また、作品のコピーにもなっている、「人間に見られてはいけない」は、絶滅してきた、もしくは絶滅危惧種となった生き物たちの声のように思える。
3)翔はなぜアリエッティに角砂糖を渡すのか?
最後の別れのシーンで、翔はアリエッティに角砂糖を一つ渡す。他の人からすれば、たかが、角砂糖一つを渡すだけに意味なんてないと思えることかもしれない。この二人にとって角砂糖を渡すことは行為以上の意味がある。
「手術はいつなの?」とアリエッティに聞かれて、
明後日、がんばるよ。君のおかげで生きる勇気がわいてきた。
と応える翔。
来週手術するけど、きっとダメだ
と言っていた翔の気持ちは、アリエッティとの出会いによって変化したのだ
ずっと受け取ってもらえなかった「角砂糖」を受け取ってもらうことは、アリエッティに心が通じ合えたことを意味する。それは手術をひかえた翔の人生にとって大きな意味をもつ。
また角砂糖を受け取ったアリエッティが翔に髪留め(洗濯ばさみ)を渡す。
「そばにこれを」
アリエッティも翔に髪留めを渡すが、こちらは手術のお守りとして、また自分のことを忘れないで欲しいと言う思いからであろうか。
翔は言う
「アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ。忘れないよ、ずっと。」
プレゼントする物ではなく、プレゼントという行為や関係性自体に意味があるということは所有に依存しない「借りぐらし」の世界観を象徴しているのである。
作品のメッセージ:所有より大切なこと
私たちはいろいろな物を買い、そして所有することを求めてきた。その裏にあるのはなにかを自分のものにしたいという支配欲だ。
「借りぐらしのアリエッティ」はそんな支配欲に対するアンチテーゼを唱える。
今私たちの間では「シェア」という考え方が広がりつつある。
「借りぐらし」はどこか、「シェア」の世界に通じているのかもしれない。私たちはSNSを通じてお互いの近況や情報をシェアしあう。また近年ではシェアハウスやカーシェアリングなど所有ではなシェアしあう文化が浸透してきている。
モノが溢れている現代。私たちは生きるだけなら既に十分すぎるほどの生活を手にすることができる。
本当に大切なのはモノ自体ではなく、そこからどういう絆(物語)を感じることができたのかということなのかもしれない。
私たちは必ず死ぬ。100歳かもしれない。50歳かもしれない。翔のように12歳で死んでしまう人もいる。私たちはそれをコントロールすることができない。
いつか返さなければいけないものを「借り」と呼ぶのであれば、私たち自身「借り」ものであると言えないだろうか?
自分ではコントロールできないからこそ、誰かと支えあって生きていく。
所有という殻に閉じこもることなく、自己と他者との輪郭を曖昧にさせる。「借りぐらしのアリエッティ」が教えてくれるのは、運命を受け入れていこうとする生き方だ。
【風の谷のナウシカ】人類は本当に進歩しているのか?
本日ご紹介するのは1984年に公開された「風の谷のナウシカ」について
科学文明の崩壊後の世界を描く宮崎アニメの代表作である。
作品テーマ:戦争と環境問題について
風の谷=前近代の暮らし
物語はのどかな風の谷の暮らしから始まる。
自然への畏怖の気持ちを持ちながらも、自然との対立を避け共生していこうとする姿勢は前近代的である。
風の谷の風車と豊かな自然。自然との共生の様子が伺える。
王蟲の抜け殻に喜ぶ風の谷の民。人工的ではなく自然にあるものを生活に上手く取り入れている。
近代国家の侵略に脅かされる風の谷
しかし、そんな風の谷にある晩輸送船が墜落する。輸送船には生物兵器である巨神兵が積み込まれており、風の谷は巨神兵を狙うトルメキア軍に襲われることになる。
トルメキア軍は、風の谷の国王ジルを殺害し、風の谷を植民地として支配する。強力な兵器をもつトルメキア軍に為す術のない風の谷。前近代の国が近代国家によって侵略を受けるのは人類の歴史と類似していないだろうか。
被支配国として働かされる風の谷の民。
支配国は、自らを正しく価値のある存在であると考える。
そして、おせっかいなことに価値のない従属国に自分たちの価値観を強要し“正しい”方向へ導こうとする。
トルメキア皇女クシャナの台詞は、近代国家が前近代国家に近代化を強いてきた歴史を代弁している。
「我らは辺境の国々を統合し、この地に王道楽土を建設するために来た。そなたたちは腐海のために滅びに瀕している。われらに従いわが事業に参加せよ。腐海を焼き払い、再びこの大地をよみがえらすのだ。」
やがて、風の谷はトルメキア対ペジテの戦争に巻き込まれる。本来戦争とは無縁だったはずの風の谷だが、皮肉にも戦地の中心となってしまう。
「風の谷のナウシカ」は1982年に原作が連載開始され、1984年に映画が公開された。戦争を題材にしたこの作品が1980年に勃発したイランイラク戦争とは無関係とは思えない。宮﨑駿はこの作品を通して戦争に対する考えを伝えようとしているのではないだろうか。
環境破壊によってもたらされた世界
そして1980年代はそれまでの高度経済成長により、激的に技術革新が進み、劇的に生活は便利になり、急激に自然破壊が進んだ時代でもあった。
風の谷のナウシカには戦争の他にもう一つのテーマがある。作品の冒頭シーン。
巨大産業が崩壊してから1000年
錆とセラミック片におおわれた荒れた
大地に くさった海…腐海(ふかい)と
呼ばれる有毒の瘴気を発する菌類の
森がひろがり 衰退した人間の生存を
おびやかしていた
「風の谷のナウシカ」は産業によって滅びた後の世界が舞台となっている。ここで自然との向き合い方について作品の登場人物を整理してみると下記の通りになる。
風の谷の人間:前近代の人間=自然に従う人間、自然に怯える
トルメキアとペジテの人間:近代の人間=自然をコントロールしようとする。自然を自分たちの意のままに利用しようとする。
ナウシカ:ポストモダンの人間=自然と人間を越境できる存在。自然と対話を求める。
腐海の森と王蟲(オウム)を始めとする蟲に怯えて暮らす風の谷の人々は、図らずもトルメキアとペジテの戦争に巻き込まれていく。だが人類の争いこそが大地を汚す原因であることをナウシカは知る。
ナウシカは言う
「汚れているのは土なんです。この谷の土ですら、汚れているんです。なぜ…誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう… 」
ナウシカのこの台詞は文明の進化を優先し、自然環境を破壊してきた人類へのメッセージそのものだ。
作品が訴えるのは、人類としてスタンス
風の谷のナウシカは1984年に公開されたが、この作品がテーマとしている戦争も環境破壊も解決できずにいる。
イランイラク戦争(1980-1988)、湾岸戦争(1990-1991)、アメリカ同時多発テロ事件(2001)、イラク戦争(2003-2010)そして2015年イスラム過激派組織であるISによってパリ同時多発テロ事件が引き起こされた。戦争の連鎖は未だに断ち切れていない。
また、環境破壊に至っては1962年にDDTによる土壌汚染 レイチェル・カーソンの「沈黙の春」によって告発されてから50年以上たつ。その間に日本では公害(水質汚濁、土壌汚染、大気汚染)が発生し、今なおCOP21という形で地球環境へ議論がなされているが、自国の利益が優先され、地球という視点で合意形成がなされることはないだろう。
「仕方がない」と言って戦争を進めるペジテの人間は、国際関係を気にして戦争に加担してしまう国々と類似している。そうして私たち人類は同じようなことを繰り返して今日を迎えているのだ。
技術革新が進み、私たちの暮らしは飛躍的に向上した。未だに戦争をし、また環境破壊の問題を解決できずにいる私たち人類は本当の意味で進歩できているのだろうか。
物語ではトルメキアとペジテの争いはナウシカの献身的な行動によって集結を迎える。私たちは未だにナウシカのように献身的になれずにいる。おそらく現実にはナウシカのような存在は難しいのかもしれな。それでも物語は腐海の底で植物が芽生えて終わる。それは宮﨑駿が作品を見た人に送る希望の芽のようにも思えるし、宮﨑駿の人類に対する期待のあらわれのようにも見える。